例えば未来のような何かを夢見て、それがついえた後の苦痛にまみれた日々を私は知っていた。
でもそういうやるせない日々に、少しだけ心が穏やかになる瞬間はたしかにあった。
私はそれを、踏みにじるようなことは、できないのだと思う。
道端に咲いている小さな花を、踏みつけることができないのと同じように。
気づかなければ、踏みつけているという自覚も持つことができないだろう。事実私は、そうして数多の花を踏みにじってきたことと思う。
でも、今そこに咲いていると気がつけるものを、せめて守ることが、償いになる事を祈るのだろう。
そのように安寧を求めてしまうことに、罪深さがあるとしても。
人生は、物語のようなものではあるけれども、決して物語ではないのだ。似て非なるものは非なのだ。だから、そこに筋を描いたり、結末を求めたりすると、失望に呑まれることになりがちだ。
ある一つの筋ある物語として人生を捉えていると、時には《もう終わりだ》という絶望のどん底に突き落とされることがある。しかしそれでも、人生は続いてしまう。終わったはずの人生が続いてしまう。その絶望は計り知れないものだ。もう生きていられない。生きていたくない。こんな人生……というように。
(ただし、人生は千差万別、ランダムなものであるから、あたかも物語であるかのように経過することもある。それによって思い違いをしてしまうと、大きな失望を呼ぶことになるかもしれないし、ならないかもしれない)
多くの場合、人生はうまくはいかない。思い通りにはいかない。多くの事件や問題は解決できないまま過ぎ去り、問に答えはなく、ただ、私たち人間は生きて、死んでいくだけである。
最高のストーリーとしての人生を、あたかも劇作家のように完璧にプランニングし、自ら主役を務める。役者を選び彼らの手を借りながら、『完璧な人生』を演じようとする。しかしそのために最善を尽くしたとしても、人生は思いがけない展開を迎え、手に負えなくなってしまうことがある。脚本を無視して、好き勝手しだす役者もいる。そうなればもはや、台無しになった舞台の上に劇作家はただ一人、得体のしれない観客の目が暗闇からこちらを見詰めるのを感じながら、早く幕が閉じてほしいと心から祈るしかない。しかし、幕は閉じてくれない。だから、その最悪な劇を終わらせたければもはや、舞台から飛び降りるしかないのだ。
でも、人生は舞台上の出来事ではないし、人生は、物語でも、演劇でも、フィクションでもなんでもない。
だから、他者を自分の人生を演じるための手段として利用してはいけないし、自分自身を追い詰めるような筋書きを手に、苦しまなくても良い。
自分の人生はただ『自分がここにいる』だけで、本当は十分なのだ。でも、それでは許されないように感じるのはなぜか。それは、誰かがなにかある種の物語を作るために、わたしたちを利用している現実があるからだろうと思う。
「優秀な子の親」を演じるために塾に通わされる子供などは一例だが、基本的に苦痛を伴う人間関係というものは、誰かに何らかの役割を強いられ、「私」の存在が手段とされているからであることが多い。
我々は自分の人生の主役なのだから他者に縛られなくとも良い、というような言葉をよく耳にするが、私はそれもまた、危うさをはらんだ思考だと思う。
それは、「主役である自分」のために、誰かを使役することにつながりかねないからだ。
自分の人生において、自分はここにいて、自分が感じていることがある。それだけのことを大切にすることすら、許されない世界がある。許さない人がいる。そうして傷つけられて、心を踏みにじられている人がいる。
わたしたちは「物語」によって多くのものを踏みにじってしまう。自分のことも、他者のことも。うまくやれない自分自身や、思い通りにならず理想を裏切る他者に、「物語」を振りかざして傷つけてしまう。もっとうまくやらなきゃと自分を追い詰めたり、他者を責めたりしてしまうようなことだ。
そしてわたしたちが傷つけられるとき、その多くは他者の「物語」による暴力なのだ。
だけれど、せめて自分に対して、せめて自分だけでも良いから「自分がここにいること」を少しだけ、大切にできたらいいね、と思う。誰に否定されても。誰に踏みにじられても。自分自身が自分の存在を、踏みにじらないようにできたら。
目の前にある小さな花に気づき、それを大切にする時、少しだけ世界は穏やかになると思うから。
本当は、人生は物語ではないし、「私」は主役でもなければ、誰かの物語を演じる脇役でも、ないはずだ。なんの役も演じない、「私」は「私」のはずだ。だから、失敗なんてことはない。間違いなんてことはない。勝ち負けもないし、「もう終わり」なんてことはない。「私」はただ、生きていることが全てで、人生には筋書きもルールもレールも、強いられるべきことも、本当は存在しない。
本当は、そのはずなのにね。
コメント
とはいえ……わたしたちの人生は物語ではないが、わたしたちはわたしたちの人生を語ることはできる。
その意味で、ストーリーやドラマではなく、ナラティブとしての人生を考えることは、できるのかもしれない。