なにもかもなくしたあとのほしぞらを涙が濡らす 光になりたい

エッセイ

 月並みにも、書くことしかできない、と思っていた。
 私にはほかに何もできなかった。人の役に立ったことがなかった。何をしても失敗で、人を傷つけ、迷惑をかけた。他人を不幸にしたことすらあった。
 書くことだけが、私のすべてだった。
 なのに、それすら。
 私は書くことしかできないのに、それすら、できない。そう思う時、それは紛れもない絶望に私を突き落とした。
 全部やめてしまえ。
 そういう時、死神がやってきて、私に囁いた。
 そうすれば楽になれる。書いても書いても、意味なんかない。優しい誰かの時間を奪うだけだ。どうあがいても、お前には生きてる意味がない。死ぬより生きるべきだと思ってはいないか? それは勘違いだ。お前はもっと昔に死ぬべきだった。そして今からでも遅くない。さあ、全部俺に任せてくれればいい――。
 死神は私に手を差し伸べ、
 私は、答える。
 ――「嫌だ」、と。

 深夜の街は冷たく、海はいつも暗闇の底から波音を響かせていた。
 ひとりで波打ち際を歩き、臆病な私は波の音が全てをかき消すそこで、ようやく話ができた。
 海は私を拒むだろうか?
 寄せては返す暗がりの白波。水平線にぼやける漁船の灯り。
 きっと拒むだろう。
 なめらかに暗い砂浜や、月もなくかがやく星空が、羨ましかった。
 光になりたいと思った。


 死神は、私に優しく笑いかけて、また影に消えていく。
 知っていた。分かっていた。彼の言うとおりだ。
 それでも、
 それでも信じたかった。
 この言葉、私の命に、少しだけの、意味、その先に少しでも、美しいものがあると。信じたかった。もう一度だけ歩き出す未来に、価値があると、そう信じたかった。
 全ては最悪だった、生まれてこなければ、それが一番良かった。それでも生まれてしまったのなら、死ぬべきだった。それでも生きてきてしまった、死にたくないと思ってしまっていた。この人生が、無駄に、ただ泣いてばかりで終わってしまうのも、夢や願いを手放して終わっていくのも、本当は嫌だった。
 この涙がせめてきらめいて、美しい言葉に変わることを、美しい物語を紡ぐことを、信じたかったんだ。
 何もできない私にとって書くことは唯一で、私のすべてだった。
 それでもなにかを、書くのはつらい。
 命を削り、身を切るような行為だ。
 そしてそれはすべて無駄に終わるかもしれない、誰にも理解されず、届かず、あるいはただ消費されて、踏みにじられて、終わるかもしれない。
 それは自傷の痛みと同じだ。
 傷痕だけが、
 大切な傷痕だけが、私の身体にただ残される。流れた血も、流した涙も、全部ただ、過去に消えるだけだとしても。
 きっと、私が残す全ては、そんな傷痕と一緒だ。
 心が砕け散って。
 血が滴り落ちて。
 息ができなくなるほど、泣いて。
 それでも綴った言葉が、傷ついた心を少しずつ癒して、私は淵から這い出て、前を向いて、また言葉を探した。
 また歩き出す一歩、崩れていく足元を踏みしめて。

 好きだった人。
 大切だった人。
 かつてはあった、帰る場所。
 書きたくて、でも書けなかった物語。
 全部なくしたあとで、それでも続いていく未来に絶望して。
 過去を振り返って、すべては哀しい思い出に変わってしまったことが苦しくて。

 それでも私はまだ考えていた。
 どうやったら、前に進めるだろう。
 大切なものを捨てずに、どうやって?

 諦められない、惨めで愚かな私だから。
 こんな私にもしも名前があるとしたら、それは、未練だ。
 
 どうしても、捨てられないから。
 光になりたい。
 例えばそんな、くだらない願いでさえも。
 

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