相談室にて③〈自分の人生って何なんだ〉

 カウンセラーの先生曰く、自分の人生を生きなよ、ということになるらしい。

 うん。でも自分の人生というのは、一体なんだろう。自分の人生は、結局、自分だけのものではない。切り離せない過去、数多のしがらみ、多くは「関係」によるものだとおもわれるが。

 誰とも、世界とも無関係でいられれば、たしかに自分の人生を生きられるだろう。でもそんなことはあり得ない。人と、世界と関わりながら、自分の人生を生きるということは、ムズカシすぎやしないか。だって、私は他人のことも、世界の事もあんまり好きじゃないもん。

 でも、きっと私自身が私の話を聞いても、同じように「自分の人生を生きなよ」と言うことになるだろう。人間は生まれながらにして云々カンヌン、というか、誰かが誰かの人生を決めるなどということが、絶対的であるはずはないからだ。

 だけど実際。

 自分が生きたいようには生きられないし、自分が生きたいように生きたぶんだけ、他の誰かは苦しむことになる。そして自分が生きたいように生きたぶんだけ、責める人がいる。責める自分がいる。そこには思う描くような幸福がなさそうだということは目に見えている。

 人間はうまれながらにして平等ではない。あらゆる点において不平等だ。人生の最初から最後まで、他者と他者は互いに不平等である。そう言わざるを得ない。だけどそもそも、平等であるかどうか、は問題なのだろうか。平等はただの理想で、現実は、どこまでも現実だ。

 不平等であることはそもそも世界の前提であり、問題としたり、それは違うなどといってみたりしても仕方ないのではなかろうか、しかしそれを多少ごまかそうとする試みも、全く無意味というわけではなさそうだ。

 しかし、現実として社会という場所はきわめて嫌なところだ。悪質な構造を持ち、資本主義は見えない暴力をふるう。……社会の勉強が足りないので、ここは印象の話です。社会への風評被害だったら申し訳ない。

 でも、大いに不都合があれど、それなりにうまくいくシステムだから、多分それで社会は回っているのだろう。

 しかし幸福、こと個人の心の安寧といったような面に対して、社会は驚くほど冷たいのを感じないだろうか。私は感じる。誰にも助けを受けられず、苦しんでいる人を私はたくさんたくさん見てきた。すぐ身近なところで、最終的には一切の安寧のない場所でただ苦しんで苦しんでその果に自殺してしまった人もいた。

 人を救わない世界、というものを目の当たりにしてきた。

 ……そして、人を救えない自分も。

 私はいま、正直幸せだと思っている。なにかこれ以上に望むことはないし、今死んでも別に良かった。生きていたらいたで良いこともある。しかし死んだら悲しむ人がいる。先生は私が死んだら傷つくだろう。親は、私を助けてくれないし、私を苦しめている存在でもあるが、しかし私が死んだら、やはり傷つくだろう。
 理想とは程遠い。おそらく世間一般の幸福には程遠いだろう。私には友人もいないし、恋人も居ないし、正直な気持ちを話せる人は一人も居ない。人生が辛い、生きづらい、傷が消えない、死にたくなるし、自分の存在が苦しい。でも、私は幸せだった。

 多くを望まなくても、幸せだと思える自分が居た。

 すぐそばで、一番身近な人が、傷つき、苦しんでいるのに

 私の人生は罪悪感に支配される。

 自分の人生ってなんだろう。

 ただ私は、周りの人みんな幸せで居てほしかった。その前提があれば、私は自分の人生を生きられただろう。だがそうではなかった。でも私は、周りの人を幸せにはできない。せいぜい、……。

 ここに居たのが自分ではなければよかった。

 自分は役に立たない。もっと役に立つ良い子だったら。環境にもっと適応した存在になれればよかった。パズルのピースがはまるように、全てがうまくいくような、そんな人間だったらなあ。

 そんな馬鹿げた理想が、これまた馬鹿げた自傷行為につながるのも、幼稚ではあるのだけれども、まあつまり、結局自分は、そういう人間だったということだ。

 自分の人生を生きるということは、すでにやっているとしか言いようがない。

 私は別に誰のために生きているわけでもない。ただ、人に与えられたものに苦しんでいることは確かだが、それは自分の人生を生きていないということではない。

 そういう自分だから、結局、いつまでも罪悪感からは逃れられないのだ。

 先生にはなんと言ったら良いのか分からない。

 然しカウンセラーという存在は、「判断をしない」ということを、話していると実感する。私がなにか言っても、それは正しいよとか、間違っているよとか、基本的にはそういうジャッジをしない。だから、否定されるのではないかとか、それはおかしいと指摘されるのではとかいったことを、恐れる必要のない相手なのだ。とりあえず何でも、話してみていいのだ。自分でそうとわかるまで回数は必要だったが。

 一方、判断はいつも自分がしなければならない。誰かに判断してもらいたいと思っても、そういうわけにはいかないのだ。カウンセラーはそれをしてくれないかわり、それをしないでくれる。といったところか。(変な良い方だが)

 憂鬱なときには判断することもまた苦痛だが、そういう時に手助けをしてくれるのがカウンセラーというか。判断出来ない、からしてもらおう、ではなくて、手伝ってもらおう、と思えると良いのかなと思った。

 だからある意味、辛いね。

 生きていると苦しいけどでも、他者が「してくれる」ことに、目を向けたい。
 だけど、どうやって返したら良いのだろう。

 分からない。

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