未必の見殺し

 昼夜が巡って、ぼんやり徹夜明けの頭で、口癖みたいに自分を罵っている。
 溜め込んだ洗い物に洗剤を垂らし、包丁をスポンジで拭う。
 
 これからどうしようか。

 殺人者は今しがた人を殺したナイフを洗い流しながら、そんなことを考えたりしないだろうか。
 
 人を殺したあとで。さて。
 これからどうするっていうんだ。

「人を殺したことがあるか?」

 と尋ねられたことがある。殺すかもしれないよ。と俺は笑っていた。いや、どうだったかな。笑ってはいなかったかもしれない。まぁとにかく、そう答えた。

 生きていれば知らず知らずのうちに誰だって人を殺すものじゃないか。そう思いたいだけか。

 俺は人を直接ナイフで刺したり、階段の上から突き落としたりしたことがあるわけじゃない。そうする予定もない。だけど、死にたいと言っている人を助けなかった。

 今もその人は死にたいと言っている。

 飛沫が弾ける。

 俺は助けない。助けられないのか、助けないのか、分からない。どちらのほうがより残酷なのか?……。

 だから俺は、今人を殺している最中なんだろう。

 死にたい、つらい、苦しいと、電波に乗って送られてくるメッセージに返す言葉がない。

 生きててくれ死なないでくれとか、そんな綺麗事は言うべき言葉とは思えなかった。だけど全てをなげうってでも、自分の人生引き換えにしても生きていて欲しいと強く願えてはいない自分がいる。
 俺は……。自分のこの下らないはずの人生と他者の命を天秤にかけている。
 だから、なにもしないでただ、ここにいる。

 皿が割れるイメージが、シンクのアルミニウムにぶつかる。砕け散る。

 見殺しという言葉がある。

 かつては違った。助けたかった。なによりも願った。できることをしようとした。でも無力だった。それをようやく思い知ったとき、自分の弱さを殺したいほど呪った。
 でも、もはやすべてが、過ぎ去ってしまった。
 今はもう、自己嫌悪も自責も良心の呵責も、乳白色の海へ溶けて、そのすべてが薄い霧に包まれて、ぼやけているだけだ。
 
 人間の最も醜い性質の一つが、“慣れ”なのかもしれない。
 永い絶望にも、いつしか慣れる。抵抗をあきらめ、従順になっていく。他者の痛みに慣れることほど醜いことがあるか。だが慣れていく。かつては自分のことのように感じられたはずの痛みに、慣れていく。
 もう何も感じない。

 俺はそうして助けないことを選んでいる。

 蛇口を捻る。静けさが訪れる。濡れた手を、ナイフを拭かないことこそが、せめてもの誠意だとしたら。

 さぁ。
 これからどうする?
 
 人を殺したあとで。
 
 ――ああ、そうだ。
 ピザでも食べようか。

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