呼吸を、言葉を

エッセイ

 生きていて、不思議だと思うことがある。
 私は、絶望から筆を執ることがある。絶望について語り始め、絶望について語り続ける。それなのに、気がついたらそれはいつの間にか、希望を語る言葉になっている……。
 そう言うことはしょっちゅうあった。どんなに涙にくれる絶望の底でも、私はいつも無意識に、見苦しくも希望の星を探していた。そして自分自身の言葉に何度も救われた。例えば遺書を書くつもりが、いつの間にか再生の物語を書いていた。そういうようなことだ。

 その理由は、たぶん……私はいつも、生きたくて語っていたからなのだろう。

 死ぬために呼吸ができるだろうか? 呼吸は生きるためにする。本質的には、死ぬためであれば、呼吸を止めるしかない。それが、このゲームのルールだ。世界が決めた絶対的なルール。いつだって簡単に死ねる。息を止めればいい。それだけなのだ。

 だから生きて語る限り、それは生きるためだ。死にたいという言葉は実際、生きるためにあった。本当に人を死に至らせるのは死にたいという言葉ではない。本当に人を殺すのは、そういった言葉がすべて奪われ、語る言葉をすべて亡くした、空虚な暗闇の底だ。その場所について私たちは、主観的な言葉を遺すことはきっとできない。本当に人が死ぬことになるのは、人が呼吸を辞めてしまうのは、そういう場所だ。言葉のない場所だ。

 だから、人から言葉を奪うようなことをしてはならない。その人が語る言葉を、聞かなくてはならない。問いかければ、答えてくれるかもしれない。語り続けてくれるかもしれない。(ただ、焦らないように)

 これは重要なことだから、繰り返す。誰かに本当に生きてほしかったら、言葉を奪ってはならない。

 耳を傾け、その人が生きて、呼吸をしている事に……、もしできるなら、ありがとうと抱きしめてあげてほしい。私はいつもそういうことができない、臆病者だった。人に触れることが苦手だった。本当は手をとって、触れて、抱きしめてあげたい、一緒に泣いてあげたい、そう思うことは何度もあった、でもいつもできなかった。だから、もし、できたらで構わない。

 死にたい、生きることは苦しいことだ。そう感じている誰かに、生きてほしいと願うなら。もしもそれを強いて満足しているような心があるなら、それは暴力だという事を忘れないでほしい。生きてくれてありがとう、そう告げることは本当は残酷なことだ。それは、私のために苦しんでくれてありがとう。という意味だから。でもそれを自覚して、それでもなお、大切な誰かにそう告げた時、それは必ずしも単なる暴力にすぎないか? 私はそうではないと思う……けれどそれは、間違っているのかもしれない、そう思いたいだけかもしれない。

 ただ、誰かに生きてほしいと願われた時――愛情はいつも身勝手で、我儘なもので、でもそれが愛情なのだという事を、分かってあげてほしい。
 そういった愛情を尊いものと思うか、醜いものと思うか、それは人それぞれだ。

 例えば死にたいと人が口にするとき、人が語るとき、それは生きようと苦しんでいるということだ。息苦しさのなかで、何とか呼吸を繰り返しているのだ。その言葉を奪い取ることこそ、お前なんか息をするな――死んでしまえ――と告げる事を意味するのだ。

 人から言葉を取り上げることは、呼吸を奪うことなのだ。

 もしも貴方に、本当に大切な人がいたとして。たとえその人がこの世界で苦しんでいても、それでも一緒に生きていきたいと、そう思うひとがいるのなら。忘れないでほしい。
 その気持ちを私は、ただ醜いものだと思わない。
 とても尊いものだと思う。その気持ちがもしかしたら、人を苦しみから救いだす唯一の可能性を持ったものかもしれないと、私は少しだけ信じている。

 どうか言葉を聞いて、手をとって、抱きしめてあげてほしい。できたらで、かまわないから。

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