2024年4月1日

 私が去ったあとに、この家を満たすことになるだろう空虚について。
 孤独と憂鬱について。重苦しい闇について。
 カタカタと蓋を震わせる味噌汁の鍋。ホースから滴る水、壊れた換気扇。

 拒絶しないことで幸福を得たとしても、引き換えに虚しさが足首へ波打つ。
 
 不満はない。絶望もない。ただ時々不安になる、苛立つ。でもその大半は結局のところ、私の思考ではない、肉体がもたらすものだ。

 感情の多くは物理的な、肉体の問題だった。
 肉体と心……心が意味するものはふたつある。そのひとつは物質的なものだ。分泌される脳内物質や神経伝達物質、アルコールや薬によって動く心。「自分」が「感じる」もの。

 もうひとつは、「自分」。いや、「自分」には、「自分」だと信じることしかできないなにか。このような心の存在を認めるとすれば、それは肉体とは異なるものであり、物質ではないと主張することを意味する。

 おそらくそれは電気、光、物質と物質の間……。これ以上視るには、私は知らなすぎる。
 物質と物質の「間」になにかが「存在する」ということが可能なのか。存在と存在の間に……だとすれば、存在自体、論じるに値しないものになりはしないか……存在論自体、人間的なものに思われる。真に問うより、道具の開発に似ている。
 
 なんだ、私ではなかったのだ。と気がつく。私に原因があったわけではなかったのだ、だから私がどんなに変わろうと、あの人を幸せにできないのだ。そもそも、幸せにしたいなど、傲慢だ。他者の生き方を捻じ曲げたいなどと。それがたとえ、幸福への祈りだとしても。
 そもそも俺は役立たずだろうが。

夢日記

 斧を手に、家の玄関を出て右奥にあった大きな木を切る。その中から、大量のアリがうじゃうじゃと湧いてくる。虫、虫、玄関の虫を弾き、外へ出す。中へ入り、扉を閉めるが、隙間からおびただしい数のアリたちが家へ入り込んでくる。私は、どうしよう! と焦り、怯え、だが、ふと簡単な解決策に気がつく。
 私はいつの間にか手にした殺虫スプレーを噴射する。玄関前がびっしょりと濡れる。蟻たちは黒くしめった塊になる。動かなくなる。
 なぜこのようなことをしなければならないのだろう? 私はそんなふうに思う。邪魔だから、気持ちが悪いから。何百、何千の蟻を殺す。

 なぜこのようなことをしなければならなかったのだろう?

 平然と殺したあとで思う。
 そして目が覚める。

読んだ本

「母という呪縛 娘という牢獄」(齊藤彩、講談社、2022)

 2018年に滋賀県で起こった実際の殺人事件を元にしたノンフィクション1。看護師の女性が母親を殺害した事件で、報道された当時は「教育虐待」が話題になった。
 母親の元で医学部を九浪した娘。本人が記者に向けて書いた手紙には、看守と囚人という比喩が頻繁に現れる。

いずれ、私か母のどちらかが死ななければ終わらなかったと現在でも確信している。

「母という呪縛 娘という牢獄」P56

 一読した感想としては、この先、あかり(仮名)さんが、自分の人生を歩み、生きていけますようにという思いに尽きる。
 だが、一つ付け加えるなら、事件の被害者となった母親は、なんて不幸な人だったのだろう、と思わずにいられなかったことを付しておきたい。実の娘に殺されたことを指して、不幸だといいたいわけではない。

 二審の最後に裁判長が述べた「愛情もあったと思います」という言葉について、考えながら読み進めていた。愛情があった? 最初、そうなのだろうか、その言葉は厳しすぎる、と思った。

 だが最後まで読んでみると、確かに、「愛情」もあったということができるように思えた。その「愛情」が、娘の一生を呪縛し、人生を壊し、奪い、傷つけ、苦しめ、やがてはその娘に殺される未来へ至る事も避けられぬものだったとしても。

 狂気に、歪んだ愛に囚われ、憎み、憎まれることしかできない。狂気というものはそう簡単に人を離してくれない。そこに愛がつきまとう時、狂気は一層苛烈なものとなるのだろう。


 「愛」とは素晴らしいもののように聞こえる。しかし、人が人を殺すことになるほど狂い、歪んだ愛もまたある。愛がないわけではない。狂った愛があり、それが無関心や憎悪以上に猛威を振るうのだ。それは相手を、自分を苦しめ、全てを破壊してもなお留まることがない。

 それにさらされた時、死以外のなにものにも、終わらせることができないように思えてならないものだ。

 歪んだ愛や狂気が他者に向く時、その源泉は、多くの場合、相手の存在そのものにはない。本人の内側にある極度の不安や虚しさ、恐怖……そういったところから生まれてくる。
 狂気とは、心の奥底から生じ、年月をかけて形を変え、ねじれ、元の形を失った、本来は別の感情であった何かなのだろうと思う。

 妙子さん(仮名)は、そういった狂気から抜け出すことができないまま、自分のしてきたことの報いを受けるような形で人生を終えることになった。

 本に書かれた以上のことを知ることはできないし、他者の人生に、幸か不幸かといった判断を下すことは不躾で、失礼なことである。それらを承知でなお、不幸な人だったと思わずには、いられなかった。

  1. 滋賀医科大学生母親殺害事件(2018年1月、滋賀県) ↩︎

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