はじめに

 高校生の時、演劇部に所属していた。高校には2018年の時に入学し、そこから約2年半、私は演劇をやっていた。今回は、その頃の思い出について、大学4年生になった今、書こうと思う。

 役職としては、主に裏方だった。役者も数回はやったが、演技はまったく出来なかった。どうしても、自分自身が何かを直接表現するということは苦手だった。1年生の時は照明、2年生になってからは脚本を書いたり、演出をやらせてもらったりもした。

 高校の3年間は、今思い返すと、私の人生の中でひときわ煌めく、最も尊い3年間だった。大切な仲間や友人達がいて、一応、好きな人とかもいて、家族もまだ完全には壊れていなかった。私は歪みを無視し続けていたから、あの日々は一見、穏やかに過ぎていったのだと思う。

 あの頃、私は沢山の物語を書いた。そして一人ではなかった。あんなにも素敵な仲間や先輩、後輩たちと、共にひとつの舞台を作れたことが、どんなに幸せなことだったか。私にとって、本当に大切な思い出だった。最も幸福な時間だった。

 もし、もう一度、皆に会えるなら、お礼を言いたかった。そして謝りたかった。

 けれどもう、二度と、会うことはできないだろう。すべて私のしたことだ。後悔することは分かっていた。それでも、あのままではいられなかった。

 大学一年生の秋、私は高校の同級生や部員を含め、それまでの人間関係をほとんど全部断ち切った。それからずっと、私は一人でいる。

落ち続ける

 高校三年生の後半から、私の人生は転げ落ちていった。結局、今思えばその原因の多くは新型コロナウイルス感染症にあったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。しかし私の精神状態は、高校3年生の春頃から酷くなっていったので、ちょうどコロナ禍には重なる。それからすべてが、悪くなっていった。大学受験には失敗するし、家は荒れてるし、(失恋したし)。滑り止めで受けた大学に入ってからも、何もかもが悪くなる一方だった。私が家を出て両親は別居した。それから三年間、家族はばらばらに離れていくだけだ。それに関しては今も何も解決していない。でも、仕方がないことだと思う。

 私は小学生の頃から、まぁ、精神状態があまり健康的な方ではないとは思っていた。大抵暗い気分だったし、何かと悩んで考えてばかりいた。中学生の頃にも色々悩んで、かなり本気で死にたいと思った。ずっと漠然と、自分は大人になる前に自殺するような気でいた。なんだかんだ案外、人は生きていってしまうものだ。それでも人前ではいつでも笑ってばかりいた。家族以外の人前で泣いたことは一度もない。とはいえ人と比べて、特別どうということもないように思っていた。そういうタイプの人間は割といるし。

 若干変わったことといえば、自傷の癖は小学生の頃に始まって以来ずっと続いている。大学二年生の頃は特にひどかった。腕や脚に、もう消えない傷痕が残ってしまった。でも、そういったこともそう珍しいことではない。そういう悩みを抱えている人は、思いの外たくさんいる。

 しかし私は、そういう自分について、何故自分がそうなのか、分かったようでいて、分かっていなかった。そうは言っても、リストカットなどは一般的でない。すべての人が本気で死にたいと思うわけでもない。やはり自分にはそれなりに問題があった。それに直面し、やっと多くのことの意味をある程度理解し、受け容れることができるまで、これだけの時間がかかったのだ。

 それについて語るのに、私の母親の話から始めなければならない。

母と家族について

 私の母親は、私が生まれる前から、精神的な不調を抱えた人だった。私自身、高校生になってから知らされたことだが、うつ病や境界性パーソナリティ障害の診断を受けていたという。とても不安定で、繊細で、余裕のない人だった。私が小学校に入る前から、母は私を連れて精神病院に通っていた。

 不安定なバランスは、事あるごとに崩れ、爆発した。それらは日常茶飯事だった。父との口論や、暴言、暴力。それらは病気の症状であり、本人にはコントロールが難しいものなのだ。たとえば私が小学校二年生の時、深いリストカットで母の腕は血まみれになり、病院に向かったのを憶えている(その時は、リストカットだとは知らされなかったが)。それから、母は一ヶ月ほど精神病院に入院した。私は毎日父に連れられて面会に行った。

 その後も色々と、本当にいろいろなことがあった。ここでは省くが、それらの多くは、良いこととはいえない、悲しい、暗い思い出ばかりだ。そういった出来事を経て、両親の関係は、私が中学校に入る頃には修復不可能なほど悪化した。それにともなって若干の反抗期を経た後は、家の空気を保つために、両親の仲を取り持つために振る舞うようになった。それは家を出るまで続いた。そして私が大学進学で家を出て、親は別居することになった。今後、離婚することになっている。意味なかったなあ。

 思えばずっと、怖かったのだと思う。それは狂気への怯えだった。精神的な狂気は恐ろしいものだ。調子が良ければ優しい母も、狂気に取り憑かれて豹変する。隣の部屋から、言い争う声や、悲鳴や、殴るような音が響いてくる。そのどれもが、私にはよく分からなかった。お母さんは心の病気なんだ。でもそれは一体何なのか。子どもの私には、よく分からない。今でもそういう物音が苦手だった。

 時間は、必ず過ぎ去る。すべては、「今」から去り、過去となる。酷い嵐がやってくる時、私はそう思って耐えた。私はただ黙っていた。いつも私は何もしなかった。怖くて、黙っていた。小学生の頃の記憶だ。

狂気はどこからくるか

 理性を越えた狂気は本当に恐ろしいもので、理屈など通用せず、明らかに普通ではない。でも私には、物心ついた頃から、そういう光景が日常だった。それが普通ではないということがちゃんと分かったのは、大学生になってからだった。

 それからようやく、私自身にあった不安定さや、生きづらさの理由も分かったような気がする。とはいえ、すべてが親のせいだと言うのは間違っている。確かに、その影響はあるだろうと客観的に考えることができる。だがそれで、私の失敗や過ちが全て、親のせいになるのだろうか?

 そうではない。彼等は彼等なりに、私のことを愛していてくれたと思う。苦しんだことも、傷ついたこともあったが、私以上に両親が苦しんでいたのだと思う。私がまだ幼かった頃、私達は頑張った。でも、うまくいかなかった。でも誰を責められるだろう? 他者を理解することはとても難しい。不可能な時もある。他者と生きることはもっと難しい。母と父はうまくいかなかったが、それでも彼等なりに私を愛してくれていたと思う、……思いたいだけなのかもしれないが。少なくとも今の自分は、与えてくれたものに目を向けることができる。

 だがもしそうだとすれば、誰が悪かったのだろうか。そう考え続けた事もあった。母は自らの親について話す。私の祖父母にあたる人たち。特に、祖母から、子供の頃受けたという暴力について。それが自分を歪めたことについて。その祖母もまた、母に話していたという。自らの母親とうまくいかなかったことについて。

 今では、誰も悪くはなかったのだろうと思っている。というより、私はそういった善悪を判断するべきではない。そんなことはできない。もっと、ずっと遠いところから影は差している。狂気はどこからくるのだろう、とよく考える。狂気は得体のしれない、遠い過去の果てから来る。

当たり前

 私は、こういった家族の問題を、人に相談したことはほとんどなかった。小学六年生の頃、状況は特にひどかった。誰かに相談してもいいと親が言ってくれたので、一度保健室の先生に話したことがあるが、うまく話せなかったし、話す意味があるとも思えなかった。

 それから、人に相談することは私にとって、特に役に立たないことだと思うようになった。何も解決はできないし、嫌な話で人の時間をただ無駄に奪ってしまうだけだ。だったら楽しい話をしたほうがいい。笑っていたほうがいい。あるいは話したいと思ってくれる人の話を聞いたほうがいい。

 大学三年生でカウンセラーに話すまで、誰にも家族の問題については話さなかった。誰かに話そうと思ったこともなかった。私にとっては、家族がそうであることは当たり前すぎた。自分がそれについて悩んでいるという感覚もなかったように思う。悩んですらいなかったのかもしれない。当たり前だったから。

 だけど、気がついてみれば私は当たり前のように悩み続けていたのだと思う。何をするにも母親の影がつきまとう。臆病から、問題をひた隠しにし、親の顔色を、空気を、狂気の様子をうかがう。でもどんなに気を付けても、私は駄目で、失敗する。また狂い始める。私はそういう時、死にたくなる。自分が嫌いになる。自分など絶対に幸せになってはならないと強く苛まれる。でも、また元通りになれば案外ころっと忘れてしまう。だからまた繰り返す。そのたびにすべてを思い出す。自分の愚かさ、醜さ。そういうことを抱えるのも、隠すことも慣れすぎて、自覚すらなくなる。

 私は臆病すぎた。

 だから次第に、些細なことも怖くなっていったのかもしれない。

傷つけたくない

 あの時、なぜすべてをあんなにも手放したかったのか、今になってやっと分かることも多い。もちろん、失恋の影は強く差していた。当時、安定を欠いていた私はあの恋に異常に執着してしまった。それが私の世界に深いヒビを入れた。だがそれが全てではなかった。友人たちとの連絡手段を絶った時、最初にこう思った。「これでもう、あの人たちを傷つけることはないだろう」と。

 傷つけることが怖かった。私の心もまた病んでいくにつれて、怖いのは誰かを傷つけることだった。病的な衝動はコントロールできない。自分の意志ではどうにもならない。焼き付いているのは母の姿だった。同じように私も誰かを、大切な人を傷つけてしまうのではないか。自分を傷つけるだけならまだいいが……と切り傷や痣を作りながら不安に苛まれた。

 親を憎んでしまったことも一時はあったが、それは間違っている。全て、私の弱さ、臆病さに原因がある。私は結局その臆病から、逃げ出し、他者を拒み、大切な友人たちを傷つけ、皆の思い出を壊してしまった。「傷つけたくない」なんて我儘で、他者を傷つけたのだ。結局自分が傷つくのが怖いだけ。それは私の問題だ。私には勇気が足りなかった。よく考えるべきだった。ただ友人たちに、その気持ちを話すべきだったのかもしれない。だがあの時の自分は、そういった一連の感情を自覚していなかった。あの時はただ、希死念慮と似た破壊衝動と不安だけが私を支配していた。もうこれ以上関わって傷つけるのが怖い、それならもう関わらないほうがいい、一人でいたい、もう誰にも関わりたくない。自分が狂ってしまうのが、それで誰かを傷つけるのが怖い。それだけしか考えられなかった。何かを誰かに相談することも、他者の迷惑になり、傷つけることだと思い込んでいた。

 それ以前に、私は自分の心の弱い部分を奥底にしまいこみすぎて、本当にすべきことを自覚することもできなかった。あの頃の自分はまだ、自分の家族のこと、幼少期のことが自分にどんな影響を与えていたのか、明確に気づくことが出来なかった。

祈ることしか

 崖から落ちるような夜を何度もこえて、腕や足に傷を重ね、毎日のように泣き続け、たくさんの言葉を重ねて、やっと、少しは自分の意味が分かった気がする。でも、それももう遅すぎるのかもしれない。今の自分にあるのは、微かな言葉と、いつ決定的に壊れてもおかしくない歪んだ家族、そして、ささやかな思い出だけ。でもそれ以上に何を望むことがあるだろう。

 今も尚、あの頃の友人たちのことを忘れた日はない。時々、夢をみる。待っていてくれる皆と、再会する夢だ。私は謝る。皆は許してくれる。願いが叶う夢。そして目が覚める。私は一人だ。壊れたものがもとに戻らない事をよく知っている。私は、壊した事で進めなくなったのかもしれない。

 今更、取り戻すことは出来ない。何もかも後悔している。だが、後悔することは分かっていた。それでも傷つけることが怖かった。今でも結局、それが変わらない。傷つけたくないという我儘。人と生きる以上、迷惑をかけたり、相手を傷つけたりすることは当たり前のことなのかもしれない。でも、それが嫌だった。怖いのだ。後悔にも、もう慣れた。

 いま、みんなは何をしているだろう。元気で生きているのかすらも、わからない。みんな大人になって、それぞれの人生を新しく歩んでいるのだろうか。思い出は思い出として、未来を見ているのだろうか? そうではない人もいるかもしれない。中には今、苦しんでいる人もいるかもしれない。優しい人たちばかりだったから。

 私には、どうかみんなに幸せがありますようにと祈ることしかできない。何か一つ願うとしたら、それだけだ。また会えなくてもいい、許してもらえなくてもいい。私は彼等を邪魔したくない、傷つけたくない。でも、わからない。結局私は、逃げ出すのだ。自ら助けようとせず、力になろうとせず、祈りに逃避する。何をすれば誠実ということになるのだろう? 友人のためになにができただろう?

 今更そんな事を考えても仕方がないことなのかもしれない。三年という月日は私達にとって決して短くはない。それなりに大きな傷も、少しは癒えるような月日だ。

 もう何もかもが遅い。分からなかったことを三年かけてようやく理解しても、その間に世界が進んでいる。私は取り残され、皆はもうここにいない。

 最も後悔しているのは、友人たちの力になれなかったことだ。私はいつも自分のことばかりで、他人を助けることができなかった。失敗ばかりして、迷惑をかけてばかりだった。もっと力になりたかった。手助けがしたかった。もっと強くなりたかった。もっと優しくなりたかった。

 そして今も自分が変われない以上、顔向けできない。

それでも大切だった

 演劇は私にとって、あの頃の思い出そのものだ。だからもうきっと、演劇をやることはないだろう。暗幕で締め切った部室、きらめく照明の温度、台本の詰め込まれた棚、並んだ机と機材、小道具の溢れかえる物置。手を叩くと物語が始まる。もう一つの世界がそこに現れ、登場人物たちの心に触れる。

 私がこの先、一人でも構わないと思えるのは、あの頃の思い出があんなにも尊いからだ。もちろん楽しいことばかりではなかった。苦しんだこと、苦労したこと、悔しかったこと、うまくいかなかったこと、力不足に苛まれたこと、そんなことばかりだった。後悔は山ほどある。

 でも、そういうことのすべてを含めて、皆といられた時間が、大切だった。そう思ってしまっていた。私は沢山の失敗をして、みんなに迷惑をかけてばかりいたのに。私がいないほうが良かったはずなのに。それなのに私はあの思い出を愛している。それがどんなに罪深い事か。

 だからあの思い出は私にとって光であると同時に、罪深く後ろ暗いものでもあり、それでもやっぱり、煌めく思い出だった。

 思い出は、壊れることがない事に気づく。私が壊したのは未来だ。思い出は、決定した過去の記憶である。変わり続けるのは思い返す自分自身であり、見方が変わることはあれど、思い出自体は、永久に不変だ。

 だからこそ悲しい。けれど、救われる。

 こんな記事を書いたのは、心の何処かでみんなに届くことを祈っているからかもしれない。

 ごめんなさい、と伝えたくて。

 今でもみんなのことが好きです。幸せな思い出をありがとう。自分の人生の中で一番の思い出です。何も返せなくてごめんなさい。私は弱い人間で、卑怯者です。本当は伝えるべきことを、いつも言えませんでした。逃げてばかりでした。たくさん迷惑をかけて、傷つけてしまって、ごめんなさい。

 かつての友人達の幸せを、今までも、これからも、ずっと祈っている。

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