2023年3月20日
多分、この先もたくさん、苦手で、嫌いで、いやなことをしていかなければならないのだろう。それを避けるために、やっぱり、苦手で、嫌いで、いやなことをしなければならないのだから。
大学四年生になろうとする春なのだから当然、私にはもう、余計なことをしている時間はないはずだった。余計なことって、でも何なのだろうか。やるべきこと、以外のこと? だが……私にとっては結局、その「やるべきこと」ってやつが、余計な事でさ。
やりたいことって、言うけど、ぼくのそれは大体がくだらないものだぜ。たとえば、見栄えを気にして行間をpx単位でこだわったりさ。誰も見ない、必要としない、気にしないようなところで必死こいてるのは、やりたいことってもんが所詮その程度だから。
それでも、もう少し強く、鮮やかに、大人になりたいのかもしれないとも思う……。
いつまでも子どもでいるわけにはいかないと思いますか?
どうかな、まぁ、そりゃそうだ。いつまでも親の世話になってるんじゃ、飯も苦いままだ。
自分の望みや欲求を他人に叶えてもらおうとするのは、非自立的で幼い行為なのだと思う。特に自らの努力で叶えることが可能なのに、それを怠っている場合。
食べ物が欲しい。住むところが欲しい。着る服が欲しい。眠りたい、遊びたい。人間社会じゃそのためにお金がいる。お金を手に入れなければならない。
ぼくは生まれてからこれまで、他人を「働かせる」ことでそういう望みの多くを叶えて生きてきた。
それがいけないことか、悪いことか、善悪を裁く権利なんて誰にもない。あり方の正しさを決める権利も誰にもなく、それは親にもない1。
ぼくももう子どもではないから、子を生むことについても考える。それはどんなに考えても、親のエゴでしかないように思う。ぼくの子どもが未来に存在するとして、その子が今、生まれてきたいですとぼくにお願いしているのか。いや。その子は今存在しない。存在したいと思うことすらもない。デカルトじゃないが、思うためには存在していなければならない。
だとすると、最初に望むのは親だ。「生まれてきて欲しい」と望むのだ。そうして子を、生まれさせるのだ。ここには叶えさせる構造がある。そして親には、どんな存在を生まれさせるのか決めることは出来ない。そんな事は当たり前なのに、分かっていない親は多いのかもしれないと思う。
親が子に対して、存在する以上の要求を行うことを、正当化することはできない。愛情と暴力は紙一重だ。
正しさはないし、仮にあっても、意味がない。自分は自分の世界を生きるしかないし、自分で生きていくしかない。ぼくたちがここにいて、心があるとしても、ぼくらは結局遺伝子の奴隷だ。延々と続く生命のシステムに位置づけられた特異点、それ自体何の価値もない、ただの線の一部、点のひとつ。
それでもぼくにはぼくの心があるから、大切に思うものがあるから、それを大切にするために、この先もたくさんの苦手で嫌いでいやなことをしていくだろう。
誰かのせいにするなよ。ぼく自身が望んでいくために。
- とはいえ、成長を経て自分自身がそれに気付いた時、大抵は後ろめたさを感じるものだ。(追_24/03/25) ↩︎
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