『赤光』は、真実の善が存在しうるとしたら、それはどんなものか――、と僕が思考した結果、ひとつの暫定的な回答を、物語的に示したものです。
ひさしぶりに読み返してみると、このような補足が必須である、未熟な作品であったと思います。
赤光には一人の男が登場します。彼は、殺人者です。何人も何人も殺してきた彼は、人を愛していません。世界を、感覚に触れるすべてを憎んでいます。
彼にあるのはただ憎悪だけです。
そして彼は、ビルの屋上を目指しますが、そのビルの下で、転んで泣いている少女を見つけます。
その姿が、ほとんど意味もなく男の憎悪をさらに掻き立てました。《どいつもこいつも、死ねばいい》……しかし彼は、少女を引っ張り起こし、行け、と、その場を立ち去るように告げました。
『赤光』は、ただこれだけの出来事を描いたものです。
僕が当時考えた、限りなく純粋な善とは、憎悪の中にあるものでした。
もし仮に転んで泣いている少女の下へ通りかかったのが、人を殺したことも殺したいと思ったこともない善良な青年で、少女を親切に助け起こし、家まで送り届けたとしたら、どうでしょうか。それは善でしょうか? そうかもしれません。
しかし親切や良心からの行為は、ある意味では行為者が望むものです。善い行いをすれば、自尊心が満たされます。自分は正しいことをしている。という意識が、自分に自信を与え、己の存在を肯定します。
一方で男は、全てを憎んでいました。何も助けたいとは思っていなかったのです。
それでも、屋上から自分が身を投げた時、巻き添えを食うかもしれない場所で泣いている女の子を、彼は見て見ぬふりはできなかった。
本当は他者に、どんな善行すらも与えたくないのに。誰も彼も、死んでほしいほど憎いのに。
それでもほとんど、自分の意志に反した本能的な行為に……少女は『ありがとう』と微笑みかけるのです。その行為の本当の意味も、男の憎悪も知らずに。
当時の僕は、このような行為は善と呼ぶに値すると思ったのです。
もちろん生活のうえで、このような純粋的な概念の追求は不要でしょう。男の存在は当然、非倫理的であり、これは正しさの追求ですらありません。
ただ、他者のための行為とされるものは、基本的に自己満足に端を発することが、僕にとっては気がかりでした。それは本当に善なのか? いや、きっと違う……と考えずにはいられなかったのです。
きっと僕はこれからも、善について考え続けるでしょう。
またそれを、何らかの物語の形にできればと思います。
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