2024年4月8日

 昔のことを思い出していたら、涙が止まらない。

 春の雨が降り続いている。

 昔のことを、あまり振り返って考えてはこなかった。改めて過去のことを考えるようになったのは、一年ほど前からである。自分の生まれた環境がどういうものだったか、一般、標準からどのように違っていて、自分にどう影響を与えてきたか、そういったことを考えるようになった。

 そうしていくと、これまで気にもとめずにいた、幼少期の、ある種凄惨な思い出が湧きあがってきたのだった。すべてを思い出すことはできない。病んだ心、狂気。血や悲鳴、暴力、暴言……私に向くことは少なかった。けれども私は怯えていた。

 小学生の頃、一番怖いのは母だ、と思っていた。いや、というよりも……今思えば、私が怯えたのは母というより、狂気であった。

 母とその狂気はまるで別のものかのような複雑な振る舞いをみせた。到底、私の理解を超えていた。しかしそれが、私にとって当たり前の光景であった。

 恐ろしいのは、他者の痛みに慣れてしまうことだ。何年も何十年も続く病に、他者が苦しんでいることに、慣れる。それは弱さであろう。しかし幼い頃すでに、私は慣れてしまった。そうでなければ、自分の心が保たれないのだろう。なんて弱い心なのか。

 だから私は怖い。他者の痛みを感じることが、もうできないような気がする。誰かが目の前で苦しんでいることに、何も感じることができないのではないか。ただ平然と、漠然と、すべてが終わるのを無力に待つことしか。

 母のことも、他の誰も憎んではいない。

 単に私は、わたし自身の弱さや卑劣さに向き合うだけだ。

 いくら精神病理を学んでも、それで理解した気になるのは大間違いだが、少なくとも知識によって了解できることはある。子供の頃にはただ受け入れていくしかなかったものを、こうして再検討するために、過去を振り返ることには意義があるだろう。

 今回、述べたいことはこの点についてではなかったのだが、少々話がそれてしまった。

 そういった過去の悪い思い出を振り返り、再検討し、そこで混乱もしたが、ここ最近ではそれも落ち着き、向き合う姿勢も定まってきた。

 いっときは、内心で親をひどく責めてしまった。憎しみに心囚われ、自暴自棄になりかけたこともあった。でも次第に、それは、誠実ではないと思うようになった。

 そうして考えが変わっていくうちに、やがて、私の中で溢れ出すように想起されることになったのは、幸福な思い出であった。それまで、気にもとめてこなかった。憎しみに囚われたときは、全く視界に入ってこなかったような、記憶である。

 例えば誕生日。例えばクリスマス。例えば休日、正月、大晦日……。いや、もっと何気ない日常。みんなで遊んだゲームや、一緒に見たテレビや映画。些細な会話、飼っていた動物たち。

 まだみんなで顔を合わせて笑っていた、それが当たり前だった日々。そういったものが、いくつもいくつも、思い出されるようになった。まだ、未来の行先を知らなかった頃の私は、幼さと愚かさゆえに、家族をあまり大切にできなかった事もあった。あの頃はその幸福を自覚できなかったのだ。子どもとはなんて傲慢で愚かなのか。だがそうやって成長していくほかないのだろうか。少なくとも、私はそうでしかなかった。

 与えてくれているもの、そこにあるものに気がつくのは簡単なことではない。

 かつての、幼い私は今もなお信じているのだ。家族はずっと一緒にいられると。愛し続けることができると。だがその子どもは己の傲慢と卑劣な臆病によって、すべてを失うことになる。

 かつて住んでいた家の庭に、すずらんが咲いていた。

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